03米菓の魅力

米菓は日本の伝統的な食文化のひとつです。岩塚製菓は本当に美味しい米菓を作り続けることで、この食文化を大切に守り育て、次世代へとつなぎます。

#01 米菓の歴史

岩塚製菓が皆さまにお届けしている米菓。米菓にはどのような歴史があるのでしょうか。少し紐解いてみましょう。

お米でできたお菓子、米菓とは

米菓とはお米を主な原料とした菓子のこと。米菓はもち米を原料とするグループとうるち米を原料とするグループの大きく2つに分けることができます。
もち米を原料とするグループには、あられ、おかき、かきもちが含まれます。
うるち米を原料とする米菓はせんべいと呼ばれます。
しかしせんべいと呼ばれる菓子の中には、南部せんべいや瓦せんべいなど小麦粉を主原料とするものもあります。

米菓が文献に登場するのは約1300年前

米菓が文献に登場するようになるのは約1300年前のことです。701年に制定された大宝令によると、宮中で食事や儀式のもてなしをつかさどる大膳職(だいぜんしき)という機関の中に餅係という役職が置かれていることがわかります。

また奈良時代から平安時代の品々が数多く保存されている正倉院に737年の『但馬国正税帳』があり、その中には「阿来良餅(あられ)四十枚」、「煎餅(いりもちひ)」という記述が見られます。米をよくのばした食べ物という意味の記述も見られ、米菓に近いものが作られ税として納められた可能性を示しています。

実際に食べられていたのは縄文時代から?

米菓が文献に登場するのは奈良時代ごろからですが、米菓は縄文後期から食べられていたと考える学者もいます。
日本では縄文後期には稲作が行われていた可能性が高く、炊いた米はその日に食べない分は携帯食や保存食または供物として日持ちする形に加工されていたと考えられています。そして、うるち米よりも日持ちしやすいもち米は加工用によく用いられ、餅のようなものが供物などに用いられていたのではないか、供えられた餅は石のように硬くなっていたはずで、その後食べるためにはかき砕いて焼いたり炙ったりする必要があったのではないか、と類推されています。ここに米菓の起源を見ることが可能です。

もち米から作られる あられ・おかき・かきもち

米菓のうち、もち米から作られるものは「あられ」「おかき」「かきもち」などと呼ばれます。あられは小粒の米菓を指すことが多いですが、これらに厳密な区別はありません。

もともとあられは餅を賽の目に刻んで炒ったものを指していました。あられという名称は、炒ったときに跳ねる様子が地上に降ってくるあられのようであることに由来します。おかきは、かきもちの女房言葉です。女房とは宮中に仕えた女性のこと。丁寧な表現をしたことから「お」がつきました。

おかきやかきもちは、元旦に硬い餅を食べたことに由来します。古来日本人は元旦に歯固めの儀式を執り行いました。硬い餅を食べて歯が丈夫になるよう祈願したのです。「齢」という字に歯が入っていることに象徴されるように、歯は人間の命を支えるために大切なもの。無事に年を重ねていくために丈夫な歯を保てるよう願ったのです。
とはいえ、供えてカチカチになった餅をそのまま食べることはできません。そこで正月に供えられた鏡餅は手や槌でかき砕いて揚げたり焼いたりして食べました。これがかきもちの起源です。

旅人が人気の火付け役となったせんべい

うるち米から作られる米菓がせんべいです。せんべいという名称は古くからあるのですが、これが元々うるち米から作られていたものを指しているのか、小麦粉から作られたものを指しているのかは定かではありません。

粉を練って成形しそれを焼くという手法は非常に古くから行われていたと考えられ、どうやら弥生時代には団子状の餅を焼いて食べていたようです。
ただし長い歴史の中でそれを間食として食べるようになったのは室町時代以降。それまでは主食として食べられていました。

せんべいが米菓として発展するのは江戸時代のことです。江戸近郊に住んでいた農家の人が作りはじめたものが徐々に広がっていきました。当時のせんべいは、残り飯を炒って蒸し、塩を混ぜたものを延ばして竹筒で丸く抜き、さらに天日干ししてから炭火焼きしたもの。なかなか手の込んだ食べ物です。当時はあまり白飯を食べられなかったため、このせんべいには粟や稗などの穀類が入っていたと考えられます。

しばらくは農家のおやつとして狭い範囲で食べられていたせんべいですが、やがて旅人の中で人気が出たことから広がりを見せるようになります。
参勤交代によって栄えた草加、町屋、柴又、千住、金町といった宿場町が、1645年から銚子で本格的に醸造されはじめた醤油を使ってせんべいを売り出すと、それが一大ブームになりました。それ以降、関東近郊でせんべいがよく食べられるようになっていきます。

やがて関東のお土産といえばせんべいと認知されるほどに広がりましたが、関西の方まで行き渡るには昭和30年ごろまでかかり、そのころには醤油せんべいとして認知されるようになります。

同じく江戸時代には小麦粉に砂糖を混ぜたスタイルのせんべいも登場しました。せんべいを焼く専門職「せんべい師」という職業もあり、腕のいい職人を抱えたせんべい屋が繁昌しました。

空海が伝えた、利休の弟子が考案した、草加のおせんさんが作ったという話は?

よくせんべいの起源を調べていると「空海が唐で学んだ製法を伝えた」「利休の弟子が考案した」「草加の団子やのおせんさんが作ったのが始まり」といった説が浮上します。しかしこれらの話は立証できないものばかり。本当にあった話なのかどうかはわかっていません。

監修:和文化研究家・三浦康子
参考文献:全国米菓工業組合 50周年記念誌『米菓とともに半世紀』

#02 改めて評価される健康食としての米

米菓からBEIKAへ

近年ではアメリカを中心に、グルテンフリーをキーワードにした健康的な素材を使ったスナックがトレンド化しています。米菓を世界中の人々が味わう日は遠くないのかもしれません。
またアジア圏のマーケットでは日本の米を使った米菓が高く評価されており、岩塚製菓の製品も好評を博しています。
岩塚製菓では世界中のお客様のニーズにお応えすべく、積極的な海外展開を進めています。